中欧連邦興亡史第二回:ロシア内戦・シベリア戦国時代
※この項はまだ設定途上のため、内容が変更される場合があります。
ロシア内戦とは、1943年3月3日のブレスト=リトフスク条約の締結と、それに伴うロシア各地での武力蜂起に伴う紛争群の総称である。
期間の長さや内戦の残した影響から、ロシア戦国時代、またはシベリア戦国時代もと呼ばれる。
-
ブレスト=リトフスク条約
ブレスト=リトフスク条約とは、フランスと中欧連邦による大協商がロシアに対して突き付けた講和条約である。
内容としては、
- 大協商軍との即時停戦
- ポーランド、リトアニア、バルト、白ロシア、ウクライナ、フィンランドの独立
- コーカサス諸国の独立
- クバン地方における中欧連邦及びフランス帝国の鉄道経営権
- 国境地帯の非武装化
- 軍備及び工場立地数の制限
- 中欧連邦及びフランス帝国への賠償金支払い
の7か条を中心に締結された。
もちろんロシア内部でこれを良しとする勢力は少なく、条約締結を認めた帝国政府は急速にその支持を失い、政府の機能不全へと陥ることになる。
-
革命と反乱軍の蜂起
条約締結からおよそ1週間後には各地が独立。条約の施行が確実なものとなると、これに反発した勢力が各地で反乱を起こした。
この混乱によって、ロシアで元々盛んだった革命運動がさらに活発化。
混乱を抑えることが出来なかった当時の皇帝ミハイル2世(ミハイル・アレクサンドロヴィチ)は退位を宣言し、結果的にロシアは空位状態となる。
そして1943年4月1日、モスクワで労働者による蜂起が発生。これにより、ロシア帝国は崩壊し、皇帝一家は中欧連邦へ亡命。
以後12年に渡る、長い内戦時代の幕開けとなった。
- 前半期(1943年4月~1945年7月)
ロシア帝国の崩壊後、各地には様々な勢力が誕生した。
クバン地方を除くウラル以西の地域を掌握する「ロシア・コミューン共和国」
クバン地方を根拠地とし、中欧連邦やフランスの支援を受ける「クバン・コサック共和国」
ブレスト=リトフスク条約によって独立したものの、社会主義勢力による侵攻を防ぐため内戦に介入したポーランド=リトアニア連合率いる「海洋間同盟」
ウラジオストクやカムチャッカ半島の獲得を目的に介入する「日本」と「満州帝国」
さらには、中央シベリア一帯を支配する社会主義国家「中央シベリア・ソビエト共和国」と言った、大小様々な勢力が入り乱れていた。
しかしながら、日本勢はカムチャッカ半島とウラジオストクを手に入れると、極東シベリアの軍閥を支援しながらも、主力軍はシベリアでの兵站の負担面から冬が来る前の早期に離脱。1943年10月のことだった。
また、内戦初期の頃は、各国が大きな軍事力を持たなかったこともあり、特にシベリア方面では大きな戦闘が展開されなかった。
そのため、特に注目されていたのがポーランド率いる海洋間同盟、またはインテリマリウム軍とコミューン軍の戦いであった。
またの名をポーランド・コミューン戦争と呼ばれるこの戦いは、ドニエプル攻勢と呼ばれるコミューン軍の攻勢が失敗したことにより、コミューン軍が大きく劣勢に立たされることになった。
1944年の5月にはインテリマリウム軍がモスクワに入城。その後、6月になると、コミューン軍はインテリマリウム陣営と和平を結び、ヴォルガ川を境目とする停戦ラインが結ばれた。
領土の半分近くを奪われたコミューン軍は、勢力を巻き返すべく中央シベリアのソビエト共和国との連合を画策。
それを実現するべく、西シベリアへの進軍を開始。中央シベリアもこれに応じ、冬季の雪や泥濘に阻まれながらも1945年7月には西シベリアが平定、ロシア・コミューン共和国と中央シベリア・ソビエト共和国はソビエト社会主義共和国連邦の成立を宣言した。
一方、ポーランド率いるインテリマリウム陣営によって占領された地域には、ロシア臨時政府が成立した。
この臨時政府の成立によって、クバン・コサック共和国は内戦から離脱し、独立国家としての道を歩むようになる。
さて、この臨時共和国は成立後すぐにコミューン支持者たちによるテロルや戦争によるインフラの破壊等によって、統治がままならない状態であった。
結局、当初は民主政によるロシア国家の運営を行うはずが、国内情勢の不安定さを見かねた当時のポーランド=リトアニア連合国王であるカロル・オルブラフト・ハプスブルク=ロタルィンスキ国王によって、彼を摂政に置いたモスクワ大公国として統治されることとなった。