中欧連邦興亡史第一回:中央ヨーロッパ連邦

f:id:Acrylicplate:20200910004356j:plain中央ヨーロッパ連邦は、ウィーンを首都に置く君主制国家である。

  • 前史

中央ヨーロッパ連邦(以下中欧連邦)は、オーストリア=ハンガリー君主国(以下君主国)を継承する形で成立した君主制国家である。

第一次世界大戦終戦直後

1916年、ベルリンへ進撃した協商軍によってドイツ帝国が降伏した後、続くようにして君主国も降伏した。1917年、フランスのヴェルサイユ宮殿で締結されたヴェルサイユ条約によって、

ガリツィア=ロドメニアのロシアへの割譲

・南チロル、トレンティーノトリエステのイタリアへの割譲

ボスニア、ヴォイヴォディナ東部のセルビアへの割譲

トランシルヴァニアルーマニアへの割譲

・フィウメの自由港化(後にイタリアへ併合)

・イギリス、イタリアへの海軍艦艇の引き渡し

・協商各国への賠償金(後にロシア・フランスへの賠償金支払い義務は消失)

などの厳しい条件が課せられた。これにより国内は大きな混乱に陥ることになる。

・内乱の十年

ヴェルサイユ条約の締結により、海軍艦艇の引き渡しが行われ、賠償金支払いが行われるようになると、すぐに問題が浮上してきた。賠償金を支払えるだけの能力が君主国の国庫には存在しないという事実と、敗戦により、国内の民族主義的活動が活発化してきたことである。

1918年、君主国領であったハンガリーのヴォイヴォディナ西部でセルビア人組織による武装蜂起が発生。この事件に同調する形で、ハンガリー領であるクロアチアや、オーストリア領であるボヘミアにおいてもスラブ人の反乱が発生。この混乱に便乗する形でセルビア・イタリアも対墺侵攻を実行した。後に同胞団戦争と呼ばれることとなるこの戦争により、君主国は大きな混乱を迎えることとなる。

しかしながら、フィウメを占領し、スロヴェニア、ダルマティアの占領をも目論んだイタリアは、フランスからの激怒と現地での激しい抵抗に遭い、フィウメの占領とダルマティアの君主国からの分離(ダルマティア・イタリア人国)を行い、戦線から早期に離脱した。

一方のセルビアスラヴォニアの占領にこそ成功するものの、クロアチア人やボスニアのボシュニク人の抵抗により、これの鎮圧に尽力しなければならない状況に置かれてしまう。

そんな中、1919年に南ドイツで蜂起した共産主義者に感化され、ブタペストにおいても共産主義者による蜂起が発生する。

が、君主国はボヘミア人・クロアチア人との和解と妥協を行い、君主国内の新たな国家としてボヘミア王国およびクロアチア王国として独立。これにより、セルビアクロアチア王国の参戦を恐れ、クロアチアから手を引くこととなる。

一方で、ハンガリーで発生した共産主義者による蜂起は、他の君主国領においてもゼネストやデモなどによって運動への連帯を示す地域も多かった。その為、ハンガリーで蜂起したハンガリー社会主義連邦評議会共和国の鎮圧後も国内の情勢は安定せず、さらに共和派の躍進や政党政治の機能不全により、内乱状態とも呼べる状態が十年近く続くことになる。

世界恐慌

賠償金支払いやヴェルサイユ条約により、経済上の制約が大きい中、1926年にアメリカのニューヨーク株式相場が暴落し、大恐慌と呼ばれる現象が発生する。

これにより、イギリスとフランスのような植民地帝国はブロック経済による保護主義経済に移行し、イタリアや日本のような後発先進国は、恐慌に苦しめられることになる。無論、これは君主国においても同様で、ウィーンの株式市場においても大暴落が発生。賠償金支払いどころの話では済まされないほどの恐慌に陥った。超ハイパーインフレの進行と雇用の崩壊により、国内の政治的不安は爆発。国家の安定は完全に地に墜ち、革命寸前という段階にまで達していた。

・ロンドン恐慌とファシストによるクーデター

1928年、新興政党のオーストリア国民社会党が政権を握る。イタリアの国家ファシスト党の影響を受けて成立した政党だが、政権成立当初、未だに大恐慌の影響を抱えていたオーストリアであったが、国民社会党のハインツ・フランク政権となってからは比較的回復の方向へ向かっていた。しかし、1930年にイギリスのロンドン株式市場が大暴落。ロンドン恐慌が発生した。多くのヨーロッパ諸国にとって、二度目の恐慌は甚大な被害をもたらして当然の物であり、フランスでは政府が崩壊し無政府状態に、イタリアにおいても、国内の共産主義者ベニート・ムッソリーニによる国家ファシスト党とその支持者によって大混乱に陥っていた。一方、君主国でも相応の混乱が発生。そういった危機的状況に対し、イデオロギー対立に明け暮れ碌に議会政治を行おうとしない議会に愛想を尽かしたハインツ・フランクは、軍部のエンゲルベルト・ドルフースと彼を指導者に持つ祖国戦線を焚きつけクーデターを実施。その後、国民からの圧倒的支持の下、君主国に引導を渡し、中央ヨーロッパ連邦の連邦指導者として立つようになる。

中欧連邦へと移行した後も、ハプスブルク家は相も変わらずオーストリア皇帝であり、聖イシュトヴァーン王冠の守護者であり、ボヘミア王であった。

これは、ハインツ自身が敬虔な君主主義者であったことと、カトリックの守護者という存在が連邦の結束に役立つと考えたからである。

連邦は複数の連邦構成体に分けられ、軍事及び経済以外の面において自治権を有していた。構成体はオーストリア帝冠領、ボヘミア王冠領ハンガリー王冠領、クロアチア王冠領に分けられ、この時点でルーマニア王冠領とボスニア王冠領、セルビア王冠領、ポーランド王冠領の設立が計画されている。

連邦構成体はある程度の自治権こそ有するものの、二重帝国時代と異なり権力はウィーンの中央政府へ集まっている。

建国当初、連邦君主の座にはカール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンが君臨している。その後、1970年からは息子のオットー・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンへと継承され、連邦の終焉まで君主の地位に君臨し続けた。

君主国時代、多民族国家故の近代化の遅れや、指揮語の非統一による混乱によって弱さを露呈していた帝国軍だが、中欧連邦成立に伴い急速に改革が進められた。

指揮語の統一や、先の大戦の教訓に基づいた改革を始め、とりわけ失業者の受け入れ先の一つとしても、国軍の改革と強化は急務であった。

特に、陸軍においては戦車や戦闘機などの技術開発を極秘裏に行い、これらの量産化に向け躍起になっていた。事実、第三次バルカン戦争や第二次世界大戦において、連邦軍の戦車部隊や航空艦隊は大きな力を発揮した。

だが、海軍に関しては大きく注力されたわけではなかった。ハインツ自身が陸軍出身だったことに加え、当時の中欧連邦にまともな海軍を運用する港も財政も造船所も無く、第二次世界大戦後にイタリア軍の技術によりようやく外海艦隊を建造することが出来た程度である。

  • 対外政策

対外関係においては、特にフランスとの関係を重視した。これは、当時フランスとイギリスが貿易や植民地、大陸での勢力関係において対立し、孤立していたことや、仮想敵たるイタリアがイギリス寄りの姿勢を強めていたこと、プロイセンがイギリスへ接近したためである。

特に、1936年にフランスが帝政復古して以降関係性はさらに深まり、1937年には中仏大協商を締結。対英姿勢を明確にした。

そして翌年、フランスと共に第二次世界大戦へ突入する。

  • 国内政策

ベニート・ムッソリーニの提唱したファシズムに影響を受けて成立した中欧連邦であるが、国内での政策は社会主義寄りの政策を取っていた。

後の歴史家が"軍事社会主義"や"社会民族主義"と呼ぶように、過剰な連邦軍神話や「諸民族の軍隊」「盾にして矛たる国軍」「双頭の鷲の鋭利たる爪」などといったように、軍隊を中心としたプロパガンダを多く流布。失業者などをも軍隊に取り込み、さらには過剰な民族主義を外へ向けさせるための矛としても用いていた。

また、カトリックの保護や企業の国有化を実施。土地改革なども行われた。

これらの諸政策には、イタリアから亡命したベニート・ムッソリーニファシスト党の人々も関わっており、特に軍からの支持も厚かったと言う。

  • 二次大戦後

・7月9日事変

第二次世界大戦後、英国陣営に勝利した中欧連邦はセルビアルーマニア・南ドイツを併合し、プロイセンからもシレジアを奪還した。また、実質的にドイツ全域を影響下に置き、欧州大陸での覇権を握ることになる。

さらに、旧イタリア王国において、ベニート・ムッソリーニを首班に据えたイタリア社会共和国を樹立。中欧における絶対的な影響力を確立する。

その後、ロシアで起きた内戦ではポーランドリトアニア連合を支援。最終的に

最終的に、中欧連邦は中欧に留まらず、北欧や東欧、南欧にまで勢力を伸ばした。

しかしその後、新大陸やアフリカ、インドを中心に拡大したフランス帝国とは次第に対立が深まっていく。ハインツ・フランクは同盟関係を弁えた人物であったため、彼が存命している内は明確な対立こそ起きなかったものの、それでもフランスに劣らない独立勢力圏の維持は、断固として譲らなかった。

だが、彼が亡くなった1976年の7月9日、次期連邦指導者の座を巡り、親仏の内務省閥と独立派の国家親衛隊の間で政変が起きる。

7月9日事変と呼ばれる事件は、フランスの支援を受けた内務省閥の勝利に終わり、これ以降、中欧連邦は15年の間、フランスの衛星国となる。

・連邦の解体

フランスの衛星国と(事実上)なってから15年の1991年、中欧連邦では革命の機運が高まっていた。と言うのも、前年度にウクライナが連邦の勢力圏を離脱して以降、ポーランドや北欧諸国も陣営を離脱し、旧ドイツでも再統一運動が盛んに叫ばれていたからである。

当時の連邦指導者であったルドルフ・レーフラーが急病で倒れると、連邦軍青年将校らによってクーデターが発生。これに対し、当時の政府は国家親衛隊や警察などで対抗し、あわや内戦という段階にまで達した。だが、当時の皇帝であるオットー・フォン・ハプスブルクロートリンゲンの出した勅書により、彼が連邦指導者の立場に就いたことで状況は一変する。

クーデターの発生による連邦の不安定化は、各地の独立運動を刺激し、激化させていた。実際、中欧連邦領バイエルンでは独立宣言が行われ、プロイセンハノーファーと共にドイツ連邦の結成を宣言した他、ルーマニアセルビアでも独立運動が激化し、これに対し連邦軍は有効な対抗が出来ずにいた。

そして、ここに中欧連邦の潮時を見定めた皇帝オットーは、彼の名の下において連邦解体を宣言し、ここに中央ヨーロッパ連邦という国家は消滅した。

・解体後

中欧連邦解体後、その跡地からはルーマニア王国ユーゴスラビア共和国、ドナウ連邦が独立した。

ドナウ連邦においても、オットー・フォン・ハプスブルクは皇帝の位置に在り続け、民主主義の象徴としても君臨していた。また、旧勢力圏の国々と共に、汎ヨーロッパ連合を樹立。意外にも、ユーゴスラビアを除く多くの国々がこの連合に加盟し(後にユーゴスラビアも加盟する)、国際社会における存在感は失われていなかった。

また、フランス帝国においても、ブリテン島での反乱や植民地の離反などがあり、結果的に中欧連邦の崩壊を食い止めることが出来なかった。全盛期と比べ、はるかに衰えたフランス帝国も、このヨーロッパの大連合に加わることになった。

こうして、ヨーロッパはフランス、ドイツ連邦、ポーランドリトアニアウクライナ、ドナウ連邦、イタリアといった主要国を中心に、新たな秩序が築かれていくことになる。